駄文の垂れ流し

レオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知が上野に来ているのである



まず、言っておく。


これは、運命だ、つまりディスティ二ー。



このブログを見ている全員、見に行きなさい。



イタリア、ルネサンスの曙のこの一枚は、若きダヴィンチの渾身の作にして、実験作だ。あの名画モナ・リザの様に捻くれて気持ちの悪い、唯、名が売れただけの絵*1とは違う、ルネサンスの魂が、そこにある。


ルネサンスって何さ。簡単に言えば、こういうことだ(多分)。


「…最近、宗教キツキツでつらくね?」


「つかさ、ギリシャ神話とか、昔の宗教ってもっと自由奔放でイカス!!」


「みんな! 昔へ帰ろうぜ!!」

受胎告知というテーマは、様々な画家に描かれているが、その中でも、この受胎告知は異端だ。それ故、すばらしい。これが普通の受胎告知なら、こうなる。

「アンタの友達たる、ガブリエルが伝えますに、アンタ、神の子を身篭りますた」


「報告乙w」


しかし、ダ・ヴィンチは次の風景を描いている。

「あんさん、神の子身篭りはりましたで」


「な、なんだってー(AA略)」


そう、そこにいるマリアは人間であり、故に驚き、今にも椅子から転げ落ちんばかりだ。それ以前の受胎告知は全てが聖母として描かれたマリアとガブリエルは正対し、落ち着いた空間が描かれているのだ(すなわち、マリアは神なのだ)。


この当時の人にとって、ルネサンスギリシャ哲学への回帰だとするならば、それと同様に、ルネサンスとはギリシャ哲学を通した人間の持つ自由奔放さや、人間そのものの美への賛歌だったと言えるかも知れない。


ここで引き合いによく出されるのが、俺が毎日職場で目にしているソフトのロゴ(アドビのアレだw)でおなじみの、ロレンツォ・メディチの友にして愛すべきファッティ、ボッティチェリ鮮やかなる美女像である。ああ、そうなのだ、もう俺の中でルネサンスと言ったら彼なのに、その中で彼はサヴォナローラと出会い、ルネサンスの心を失っていくのだ。ルネサンスの代表格が、ルネサンスを去る様は歴史の綾としか言いようが無い。


閑話休題ルネサンスギリシャ哲学を通した人間賛歌だとした時、このダ・ヴィンチという男は、また少しズレている。彼は人間の神性や素晴らしさではなく、如何にモチーフとしての人間をリアルに描くかにだけ傾注しているのだ。それはモナ・リザよりも最後の晩餐で花開くのだが、それまでの過程でも色々とあるのだ。岩窟の聖母の話を見るといい。


それ以外にも…

「ちょ…この爺、すっげえマッチョ!!!」


「あるあ……ねーーーーよwwwwwww」


(ミケランジェロの大作「天地創造」を見てのダ・ヴィンチ)


このような感じにミケランジェロとも戦っている。フィレンツェの戦勝記念の絵画を描くコンペで、二人は争っているのだが、以降、ミケランジェロは絵ではなく彫刻に没頭する。どちらが勝ったのかは推して測るべし。ああ、なんとドラマティックな話であるか!!


閑話休題(二回目)。とまれ、そんな変人、ダ・ヴィンチ出世作がこれなのだ。インスパイア画家にして女性大好きラファエロが、その技術を師事したのも頷ける。驚きながら、尚も魅力的なマリア!! (←テコ入れすぎ?)


ああ、もうこれ以上言う事もあるまい。何しろ俺も見ていないのだから、この様な雑文は、まさに雑文でしかない。


だが、見れば何かが変わるはずだ。



もう一度言おう。



このブログを見ている全員、見に行きなさい。



そこにあるのはルネサンスに対するダ・ヴィンチの狼煙!!



受胎告知なのだ!!!!











あー、ちなみに、この文の内容の信憑性はあんまり無いかも(うろ覚えだしな)。興味があったら調べてみてね。

*1:俺と母親の話し合いの結果、ナポレオン然り、ヒトラー然り、権力者に愛されただけじゃねーの、という事に落ち着いた。永遠の美女とするなら、俺はラファエロの聖母子像で良い。